いやはや南北朝時代への序章だけで、すでに3回目・・・。前回はこちら

その前に家系図にて整理をしておきたい(何せややこしいから・・・)

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そもそもの発端は後嵯峨天皇が二人の息子たちに残した遺恨の跡目相続だということは解説した。

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兄・後深草法皇率いる持明院統(じみょういんとう)チームうさぎ出家された法皇が持明院殿を里内裏(さとだいり=仮住まいの皇居)としていたので、こう呼ばれる。

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一方、弟の亀山上皇&後宇多天皇率いる大覚寺統(だいかくじとう)=チームかめ

同じくこちらは、大覚寺(だいかくじ)を本拠地としたことからこのように名づけられた。

その後、幕府も介入して両統仲良くするようにと迭立(てつりつ)案を打ち出し、10年ごとに交代制でお互いの皇子を天皇にたてることとなった。(ここまでがおさらい・・・(*´ω`)OK?)

一見丸く収めたようであったが・・・

実は、このように天皇家を二分して結束を弱めるのが幕府側の本当の狙いだった・・・。

第九十四代・後二条天皇が在位7年で病没され、第九十五代・花園天皇は若干12歳で即位。

その時点で大覚寺統の跡継ぎである皇子の邦良(くによし)親王が幼少であり、病弱であったため皇太子として立てることに不安があった。

その結果、邦良親王が無事に成長するまで、あくまで中継ぎとして後二条天皇の異母弟である尊治(たかはる)親王を皇太子として擁立し、第九十六代・後醍醐(ごだいご)天皇として即位させた。

だが、この代打要員のような天皇は世にも稀な破天荒の君主だった・・・(;´・ω・)

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この当時の鎌倉幕府は絶大な権力を良いことに、北条家とその取り巻き連中だけが優雅で派手な暮らしをしていた。

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一方、地方の御家人(ごけにん)たちは、決して楽な暮らしぶりではなかったので、幕府に対して不満がたまっていた。天皇家も例外ではなく、幕府に牛耳られてしまっており、不自由な暮らしぶり・・・。

その現状を憂いていた後醍醐天皇は、即位した途端に鎌倉幕府との協調路線を堅持してきた今までの約束事をすべて白紙に戻し、天皇と貴族による新政の理想を高くかかげていきなり討幕運動に踏み切った!(◎_◎;)どひゃ~!

しかし・・・後醍醐天皇による討幕計画は六波羅探題《ろくはらたんだい(京都の警察)》にあっさりとバレて、片腕だった側近の貴族日野資朝(ひのすけとも)が流刑されてしまう(ノД`)・゜・。

だがまったくめげない、後醍醐天皇はその後も密かに倒幕をするべく、奈良の興福寺・京都の延暦寺といった強大な寺社勢力と親密になり・・・どんどん足固めをしていった。

ところが・・・今度は、味方の裏切りに会い身辺に危険が迫ったため(◎_◎;)ヤバっ

正当な皇統の印である三種の神器(鏡・剣・勾玉)を持って急遽京都を脱出しながら挙兵。

当初は比叡山の延暦寺に向おうとしたがすでに幕府軍が先回りしており・・・奈良との県境にある、笠置山(かさぎやま)に籠城したが・・・圧倒的な兵力の幕府軍の前に打つ手なく捕らえられてしまう(ノД`)・゜・。

これが1331年の元弘(げんこう)の乱である。

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幕府は、当然ながら後醍醐天皇の地位を廃位し、後伏見(ごふしみ)上皇の皇太子量仁(かずひと)親王を即位させた。

これが北朝の初代・光厳(こうごん)天皇(チームうさぎ)である。

その一方で

囚われの身となってしまった後醍醐天皇は謀反人として隠岐島に流された。( ;∀;)やっぱね

が、しかし・・・

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まったく凹むことなく遠く海の向こうから打倒幕府にメラメラと闘志を燃やしていたのであった・・・( ̄▽ ̄)フフフ

今日はここまで!

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かなり脱落者出たかもでしゅね・・・これから面白くなりましゅから~♪


最後まで読んで下さって有難うございます<(_ _)>


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※この記事は以前の記事を、リメイクしたものです。